解説:ワイタンギ条約の意義

Kia ora

ニュージーランドでは2月6日はWaitangi Day  ( ワイタンギ・ディ) として国民の祝日に制定されています。

このワイタンギ・ディは、ワイタンギ条約を祝い、全国各地で色々な催事が執り行なわれます。

ですが肝心のワイタンギ条約そのものについてはあまり知られてないようです。

そこでこれから、ワイタンギ条約が何であるか、そしてニュージーランド人にとってどういう意義があるのか、締結に至るまでの経緯を含めて解説していきます。

ワイタンギ条約とは?

ワイタンギ条約は大英帝国の君主とニュージーランドの先住民マオリ族の間で交わされた契約書です。

Te Tiriti o Waitangi – The Treaty of Waitangi, 1840 © Archives New Zealand

1840年2月6日、NZ北島、ベイ・オブ・アイランドのラッセルで締結されました。

ニュージーランド国家設立を謳う条約で、条約が締結された2月6日はワイタンギ・ディと呼ばれます。

歴史的背景


● マオリと Pakeha ( パケハ:西欧人) 

Captain Cook © Nahia Blanco Iturbe from Wikimedia

18世紀後半、イギリスの探検家キャプテン・クックの訪問を機に、ニュージーランドは自然資源が豊富な島として、イギリスを始めフランスなど西欧の国々の興味を引くところとなりました。

特にイギリスは産業革命が起こり手工業から機械工業に移行中で、機械に必要な重油として、ニュージーランド沖を回遊するセミ鯨の顎骨から油を捕ってイギリスへ送る捕鯨家や、貿易を行う人々がニュージーランドに移り住みました。

これらの西欧からの入植者は pakeha ( パケハ )と呼ばれ、そのパケハに対し先住民のマオリは人材や資材、食料の他、輸送船の護衛などを提供し、代わりに銃やお金などを得ていました。
マオリの中には、クムラや木材の商業取引の為オーストラリアやイギリスまで出向く者もいました。

捕鯨家に続いてNZに住み着いたのは、キリスト教の宣教師です。
宣教師から読み書きを習い、キリスト教徒になるマオリは少なくはありませんでした。

このように、マオリ人と入植者の間では 良好な関係が保たれていました。

その理由の一つに、当時ヨーロッパでは人権擁護運動が芽生え、大英帝国は南アフリカやアメリカ、オーストラリアを植民化した際の先住民の残酷な取り扱いに対して、厳しく非難されていた事も挙げられます。

● 秩序化に向けて

1830年代に入ると、10万人のマオリ人口に対して pakeha ( パケハ )  の数は2千人まで増え、ラッセルを拠点とする貿易取引は益々盛んになりました。

同時に、利権を絡んだ犯罪も増加しました。特にオーストラリアからの脱獄流刑者らによる無垢なマオリ人を欺く行為が目立ちましたが、当時のニュージーランドは統一国家ではなかった為犯罪を裁く法律を持たず、犯罪を制する手立てがありませんでした。

この為、宣教師は英国政府に善良な英国市民とマオリを保護するため、法の制定を嘆願するようになりました。

宣教師の嘆願に対し英国政府は聞く耳を持たない状態でしたが、宿敵のフランスが土地買収に向けて動き出すと、1833年政府の代表として James Busby ( ジェイムズ・バズビー ) を商業貿易の拠点であるラッセル に駐在員として送り込みました。
マオリとの貿易において英国の独占利権を得るためでした。

更に英国政府は、1835年英国の法の元、北島の34のマオリ部族の酋長に独立宣言を行わせ、フランス人の土地売買と貿易を封じこめました。
同時にニュージーランド初の旗が作られ、この籏をマオリ族が貨物船に掲げることでニュージーランドの船として他国から認識されるようになったのでした。
( 下の画像はそのNZ初の旗です)

Flag of the United Tribes of New Zealand From Wikimedia commons

それでも犯罪や土地の不正売買の状況は改善されず、マオリ族と条約を締結しニュージーランドの主権を得る使命を受けて1840年、William Hobson ( ウィリアム・ホブソン ) が副提督として派遣されました。

ワイタンギ条約締結

● 条約の内容

ホブソンは地元の宣教師の助けを借りて条約の草案をマオリ語に翻訳。内容を一日にかけて議論し、2月6日ベイ・オブ・アイランドのワイタンギの地で条約を締結しました。
この日は43人の酋長が条約に署名、更に、9ヶ月の間に6つのコピーが全国を巡り500名余りの酋長が署名しました。

“The Signing of the Treaty of Waitangi”, Ōriwa Haddon © Archives New Zealand

ワイタンギ条約は三つの条項から成ります。

1) マオリ族は大英帝国女王の臣民となり主権を王権に譲る。
2) マオリの土地や森林、水産資源の所有権は保証されるが、それらの転売はイギリス政府に対してのみに行われる。
3)マオリはイギリス国民と同様の権利を認められる。

が、ほとんどのマオリ酋長が署名したマオリ語には英語版との違いがありました。

マオリ語版では、条項1の主権ではなくkawanatanga (  カワナタンガ : 政権) を英国君主に譲ると書かれており、マオリ族はこれまで同様に主権を持つものと思っていました。
また、条項2のマオリ族の土地所有についてはマオリ語版では土地のかわりに taonga ( タオンガ : 慣習,財産) という言葉が使われており、マオリは土地の他、言葉や文化などの知的財産も継承するものと信じていました。

故に、イギリス人はNZの土地はイギリス人のもの、一方マオリ族は土地は自分たちのものであることが保障されているという、双方の間で異なる解釈がなされました。

● 条約締結後

結果として、マオリはそうとは知らず、イギリス王室の絶対的な支配下となり、その為、マオリの土地所有は保証されていたものの、結局はイギリス政府に取り上げられる結果となってしまいました。

土地を手放す事により、マオリは食料などの生活の糧や、先祖代々から受け継がれ心の拠り所となっていた建物や場所を失い、文化や言葉を奪われた苦しい生活を余儀なくされました。
そして1960年代頃から、マオリ族の抵抗運動が始まりました。


● ワイタンギ審議会設立

この為、ニュージーランド政府は1975年にワイタンギ審議会を設立。過去の土地取引を審査し不正であると認定された場合は、部族に対して土地の返還とともに損害賠償がなされています。

また、風化しつつあるマオリ語を保存するために、1987年にはマオリ語は公用語に制定されました。

● こんにちのNZ社会

現在はこの2月6日のワイタンギ条約の日は、ニュージーランド国家誕生を記念する日として、全国各地で盛大なイベントを催し祝っています。

また、ワイタンギ条約が締結されたラッセルでは、地元のマオリ族がポフィリを行い首相を初めとする政治家が列席することになっています。

一方で、過去の苦渋を理由にラディカルな人々が列席の政治家に対し反抗的な態度を取ることもあり、毎年この2月6日にワイタンギ条約の日は物議を醸しだしています。

2024年のワイタンギ条約記念日について特集を組んでいます。式典などの詳細についてはこちらをご覧下さい。

あとがき

このようにワイタンギ条約は奥深い意味があり、そこから生じた問題は複雑で、そう簡単に解決できるものではありません。
ですが、このワイタンギ条約は、現在のNZの国家統一を築く文書としてだけではなく、人類の史上初めて植民地の原住民との共存を図ることを目的とした条約という点で、ニュージーランド人にとっては誇るべきものだと思います。

南アフリカ、北アメリカやオーストラリアなどのニュージーランドの前に英国に植民地化された国では、先住民の権利どころか存在すら認められていませんでした。

オーストラリアでは、最近になってようやく歴史の教科書でアボリジニの存在が掲載されるようになったものの、大半の人は、未だにキャプテン・クックがオーストラリアに来た最初の人だと言うそうです。
アメリカ合衆国やドイツでは白人至上主義がますます強まってきています。

そのような世界情勢の中で、NZは人種差別が全くないとは言いませんが、マオリ語や手話を公用語とし、色々な人種や文化を容認し弱者に優しい社会だと言えます。

その礎となっているのがワイタンギ条約だと言うことを理解していただければありがたいです。

下の動画には去年2020年のワイタンギで行われた儀式がおさまっています。
ジャシンダ・アダーン首相もスピーチしていますので、ご覧下さい。

また、ワイタンギ条約の原本はウェリントンの国立図書館に、複製版はテパパ国立博物館で展示されています。
ウェンリントンにお越しの際は是非覗いてみられる事をお薦めします。

* 国立図書館
https://natlib.govt.nz
*国立博物館テパパ
https://www.tepapa.govt.nz

それからワイタンギ条約締結後からワイタンギ審査会設立にむけての模様はこちらをご覧ください。

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ABOUTこの記事をかいた人

1997年にNZに渡航。以来住み心地がよく現在に至る。旅行、ホテル業界を経て現在は教育業界に従事。 趣味は、ガーデニング、アートと映画鑑賞、夏のキャンプ旅行。 パートナーと中学生娘とウェリントン在住。