キンギタンガ/マオリ王室とは? あまり知られていないニュージーランドのマオリ族王室解説❷

「マオリ族王室」の存在を知って驚く人は多いのではないでしょうか。マオリ語で Kīngitanga (キンギタンガ) と呼ばれるニュージーランドのマオリ王室はイギリス皇室を真似て作られ、170年の歴史を持ちます

この編では、そのキンギタンガが生まれた模様を、当時の時代背景を踏まえながら詳しく紹介していきます。

Kia ora

2月6日のワイタンギ条約記念日は、『Treaty Principles Bill/ワイタンギ条約原理見直し法案』  発案者の ACT 党党首の David Seymour(デイビッド・シーモア) のスピーチが途中でマイクが奪われて遮られた他は、予想外に特に問題もなく無事に終わりました。

今年のワイタンギ条約記念日は、どちらかというと政治的な云々よりも、去年若くして君臨したばかりのマオリ族の新クイーン参列に注目が集まったように見えま。弱冠28歳のクイーン、Te Puhi Ariki Ngawai Hono i te Po Paki (テ・プヒ・アリキ・ナーワイ・ホノ・イ・テ・ポー・パキ)を一目見るだけのために、ワイタンギの記念式典を訪れた人がいたほどです。

新クイーン、ナーワイ・ホノ・イ・テ・ポー については以前特集を組んで紹介しました。続いてこの編では Kīngitanga (キンギタンガ/マオリ王室 ) そのものについて紹介してきます。

キンギタンガ/マオリ王室の役割はマオリの各部族を集結することです。

それぞれが色々な思惑を持つ部族をまとめるのですから、キンギタンガ/マオリ王室はマオリ族の重要な役割を担っていると言えるでしょう。

以下は、キンギタンガ/マオリ王室の簡単な概要です。

  • 各部族を集結する目的で1858年に生まれた
  • ワイカト地方の Ngāruawāhia ( ナールワヒア:ハミルトン市の北西に位置)に所在する
  • 植民地化以後に生まれたマオリ組織の中で最も長い歴史を持つマオリの機関
  • ニュージーランドの政治機関の中で一番古い
  • 最初のキングはKīngi Pōtatau Te Wherowhero
  • 現在のクイーン、ナーワイ・ホノ・イ・テ・ポーは8代目にあたる

⚫ 歴史的な背景

ヨーロピアンがニュージーランドに入植した19世紀初頭は、マオリ族は統一した組織を持たず、部族ごとにそれぞれの酋長によって統治されていました。
1840年にワイタンギ条約が締結され、1850年に入ってイギリス人入植者数が激増するとともに、マオリ族はイギリス王室からの過度の政治的な介入や土地の転売要求に直面することになりました。

*ワイタンギ条約の詳細はこちらをご覧下さい。

このためマオリ族は、土地を売る派とそうでない派に分裂し始めました。

⚫ キンギタンガ運動が始まる

こうした中、マオリ族の中にイギリス王室と同様の権力をマオリ族も持つべきだという主張をする人々が現れました。
俗に言うキンギタンガ運動です。

キンギタンガ擁護者の中でも特に熱心だったのが、Te Āti Awa(テ・アーティ・アワ)部族のPiri Kawau (ピリ・カワウ)と、Ngāti Toa ( ナティ・トア)部族の Tāmihana Te Rauparaha (タミハナ・テ・ラウパラハ)でした。

この二人は渡英してビクトリア女王と謁見し、イギリスの整備された行政機関や産業、司法を目の当たりにした経験があります。彼らはマオリ族もイギリスのように一人の権力者の元にまとまれば部族間の争いが無くなり、マオリ族は土地を所有し続けることができると確信したのでした。そしてイギリス入植者と別にマオリ族だけの行政機関を設ける必要性を唱えました

余談ですが、Tāmihana Te Rauparaha (タミハナ・テ・ラウパラハ) の父親は、NZの ALL BLACKS が試合前に行うマオリ族の有名な武闘ダンスの Kamete Haka (カマテ・ハカ)を作ったテ・ラウパラハです。
Kamete Haka (カマテ・ハカ)の詳細はこちらを。

 

1853年からタミハナら一行は、マオリ・キング説を説いて北島の中部一帯を回りました。
並行して、彼らは初代キングの候補者に打診して回りました。

第一候補として挙がったのは有名なWhanganui (ファンガヌイ)地方のチーフでしたが、本人からタウポ一帯の部族のチーフが相応しいと断られ、同じようにタウポ部族のチーフからはロトルアのTe Arawa族のチーフが相応しいといった具合に、次々に断られました。

何故マオリのチーフが次々に首を縦に振らず、他の部族のチーフを推薦した背景に「自身は一部族の長であり、全ての族の上に立つ器ではないという気持ちと、他の部族のチーフを立てる」という、マオリの名将らしい謙虚な姿勢が挙げられます。

1856年、 タウポに各部族のチーフが集まって話し合いがなされ、ワイカト族の Pōtatau Te Wherowhero ( ポータトウ・テ・フェロフェロ)がキングとして推薦されました。

ワイカト族の ポータトウ類まれない人柄に加えて数多くの部族と血縁関係を持っていること、そしてワイカトは肥沃な土地と豊かな資源を備えていることから、他の部族のチーフはマオリキングに最も相応しいと同意したのでした。
王室行事など沢山の集まりを執り行うには、ポータトウの財源が必要だったという訳です。

また、1841年にニュージーランド初代総督のウィリアム・ホブソンが、イギリス王室にポータトウは最も権威のあるマオリ族のチーフであると報告しているなど、イギリ王室側にもその名を轟かせていたこともあります。

ポータトウもまた他のチーフのように最初は渋っていました。特に自身の70歳という年齢が引っ掛かっていましたが、1857に開かれた有名な会議 Te Puna o te Roimata (涙の泉の意)にて、息子のTāwhiao(ターファイアオ)を二代目として継がせることを条件に承諾しました。

これによりワイカト族はマオリ王室の kaitiaki ( 保護、信託者)となりました。

Pōtatau Te Wherowhero painted by Gottfried Lindauer

実は、キンギタンガ/マオリ王室運動の発起人だったピリ・カワウとタミハナは、彼ら自身が初代キングになる野心を持っていました。
が、カワウはポータトウが最も威厳のあるチーフであることを自覚しており、一方タミハナは父親のテ・ラウパラハから、彼らの一族はその昔拠点としていた Kāwhia(カーフィア)から ポータトウのワイカト族から余儀なく退却させられたことからたしなまれ、断念した次第です。

1858年、Ngāruawāhia ( ナールワーヒア)の地において、ポータトウはマオリ族のキングとして、

「クイーン・ビクトリアと同等の立場に立ち、これよりキリストのご加護のもと法律に基づき未来永劫保護される」

と、任命を受けました。
そして翌年の1859年、聖書を頭に置き、キングの宣誓式が行なわれました。

残念ながらその僅か2年後にポータトウは他界しました。在位期間が短かったにも関わらず、ポータトウは各部族代表で構成される評議会を設けるなど、マオリ族の統一に大きく貢献しました。

王位は予定どおりポータトウの息子ターファイアオが継がれました。
ターファイアオは父親とは異なり、キングとしての大半の人生を土地戦争という混乱した時代を過ごすのでした。

このようにマオリ王室/キンギタンガは、部族の統一を図るために設けられましたが、最近は特に若い世代の人々の王室離れが否めないようです。

だからこそ、新しい若きナーワイ・ホノ・イ・テ・ポーにはしなかやなリーダーシップが大いに期待されているのではないでしょうか。

果たして彼女が王室に新風を吹き込むができるかどうか、じっくり見守っていきたいところですね。

Ngā mihi

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1997年にNZに渡航。以来住み心地がよく現在に至る。旅行、ホテル業界を経て現在は教育業界に従事。 趣味は、ガーデニング、アートと映画鑑賞、夏のキャンプ旅行。 パートナーと中学生娘とウェリントン在住。