マオリ族の土地喪失による苦渋の道のりとワイタンギ審査会

 

Kia ora

ニュージーランドでは毎年2月6日はワイタンギ条約記念日として国民の祝日に制定されています。ワイタンギ条約はニュージーランド国家の基礎を築く文書ですが、実際に1840年に締結された直後から様々な問題を抱えてきました。その中でも特にマオリ族所有の土地の利権は、深刻な問題として今尚ニュージーランド社会に影を落としています。

この編では、ワイタンギ条約締結後のマオリ族の土地喪失と、対応策としてのワイタンギ審査会設立の経緯を詳しく解説します。

◆ はじめに

1840年2月6日イギリス王室と交わしたワイタンギ条約では、事実上ニュージーランドはイギリスの植民地となるとともに、先住民マオリ族の個人の権利や土地の所有については保証されていました。ですが実際には契約書の英語版とマオリ語の解釈の違いや、イギリス入植者の数が圧倒的多数になるにつれ、ワイタンギ条約の存在さえが忘れられ、保証されているマオリ族の権利が闇に葬られたも同然でした。

その結果として、マオリ族が先祖から受け継ぎ所有していた土地は、彼らの手から取り上げられたも同然に次々に転売され、マオリ族は苦渋の道のり強いられることとなりました。

*ワイタンギ条約の詳細についてはこちらをご覧ください。

 

◆ ワイタンギ条約後のマオリ族の土地喪失


1840年に先住民マオリ族とイギリス入植者の共存を図る目的で成立したワイタンギ条約でしたが、実際にはワイタンギ条約自体に対する両者の見解の違いから、マオリ族が所有していた土地は入植者個人に次々と転売されました。
個人間だけでなく、次のような過程を通し国を挙げて組織的な方法で転売されたのでした。

1862年にNative Lands Act が制定。部族が所有する土地はすべて部族名でなく個人名で登記。マオリ族所有の土地の転売が簡単となる。また、この法令により、登記手続きの不手際などからマオリ族所有の土地の5%がイギリス王室に無償で取り上げられる

1873年にNative Land Act が改正。部族としての土地所有自体が禁止される。代わりに各個人としての所有となり、もともとの部族の所有地は、再三区分された後にマオリ個人には使い物にならない土地をあてがわれた。

対してマオリ族はイギリス政府と衝突し、有名な1860年の Taranaki War ( タラナキ土地戦争)ではマオリ族数千人の命が失われました。
が、それにも関わらず、1891年までに、マオリ族は南島の土地をすべて失い、北島では40%近くの土地を所有するものの、そのほとんどは土質が悪く使い物になりませんでした。

Parihaka, Taranaki © Archives New Zealand via Flickr

更に、1900年代に入ると、入植者がもたらしたインフルエンザは全く免疫力が持たなかったマオリ族には大打撃となり、マオリ族の人口はおよそ半分の5万人にまで減少。当時80万人の国全体の人口に対してマイノリティとなり資源も減少、マオリ族が国に与える影響は急減しました。

第二次世界大戦後、特にマオリの若い世代は職を求めて地元を離れて都市で働くようになりました。都市部でマラエを建てたりするなどの試みがなされたものの、都市に住むマオの間では言葉や慣習そして文化が次第に廃れていきました。

◆ プロテスト運動 hikoi とその影響

〇 マオリ族政治家の台頭とプロテスト

不遇を強いられたマオリ族でしたが、中には Sir Apirana Ngata ( アピラナ・ナタ), Sir Māui Pōmare ( マ-ウイ・ポマレ) などのマオリ人の政治家が台頭し、人々に影響を与えるようになりました。
また1890年に発足したThe Young Māori Partyと呼ばれるマオリ人の若者で形成されたグループは、マオリ文化の復興を唱えるとともに政治的な影響を含む団体として活躍。
第二次世界大戦後は、新しいリーダーが都市部に台頭するようになりました。 

1960年代に入ると、マオリ族の間で植民化の影響や傷跡に対する意識が高まり、プロテスト運動が行われるようになりました。

〇 hikoiとは

幾つかのプロテスト運動が行われましたが、決定的となったのは、1975年 マオリ語で hikoi ( ヒコイ )と呼ばれる‘Māori Land March’ でした。当時75歳のDame Whina Cooper(フィナ・クーパー)が先頭に立ち、”no more acre of our land ”をスローガンに、北島の最北端に近いHāpua(ハープア)から首都ウェリントンの国会議事堂まで行進。失った土地を取り戻す望みもないことに対する政府への対応を要求した hikoi には最終的には5,000 人が参加、6万人が署名した嘆願書が当時の首相 Bill Rowling ( ビル・ロウリング ) に差し出されました。

land march 1975

〇 hikoiのNZ社会への影響

この hīkoi や他の運動は、Pākehā(パーケハー)と呼ばれる白人の社会に大きな衝撃を与えました。白人は、他の国に比べてニュージーランドは原住民と上手くやっていると信じていたため、マオリ族が全く違う見解を持っている事実を初めて知る由になりました。同時に、ワイタンギ条約は過去の興味深い出来事ではなく、マオリ族にとってイギリス政府との関係を表す重要なものであるとして見直されるようになりました。

こうして次第に白人社会の中でもワイタンギ条約のフォーラムに参加するものが増えてきました。白人とマオリ族の関係の現状について問題を学者が提起し、ワイタンギ条約とその影響に関する本が次々に出版されベストセラーとなりました。社会には反対する人もいましたが、大多数はワイタンギ条約で保証されているマオリ族の権利を保証するというマオリ族の主張を擁護しました。

◆ ワイタンギ条約審査会

 

hikoi などのマオリ族のプロテスト活動、それから社会のマオリ族の権利を認知する気運が高まる中、1975年にワイタンギ条約審査会が発足しました。ワイタンギ条約審査会はマオリ族の土地に対する憂い、苦情を調査することを目的としています。調査した結果に基づき推論は立てることが出きますが決定権は持っておらず、最終決定権は政府に依存します。1985年に法が改正され、1840年に遡って不平等に行われた土地の転売が対象となっています。

ワイタンギ条約審査結果の公開と政府との調停は、言うまでもなくマオリ族にとってとても重要なことです。

現在、およそ3000件近くの案件がワイタンギ条約審査会に登録済みで、全ての案件を合わせた面積はニュージーランドの全土のおよそ80%に及ぶと言われています。その半分の案件は調査済みもしくは調査中で、内150件近くの案件はすでに調停され20億ドル以上の金額が賠償金として支払われています。
よく知られている調停済みの件を幾つか紹介します。

マオリ族の漁業権

ワイタンギ条約でマオリ族は土地の他、森林や漁業にアクセスできることが保障されているものの、その後商業的な漁業を優先する法律が制定された為マオリ族は漁業権を失ったことに対し、1989年に調停。 王手水産会社Sealord社の漁獲量10%の他、株券や5千万ドルがマオリ族の漁業委員会に弁償。 第二段階として 1992年には, マオリ族の商業漁業権が最終的に確立され、Sealord社の漁獲量の漁獲量10%、株券の増加、そして1千8百万ドルの現金の償いがなされた。 

Tainui( タイヌイ)部族の土地弁償

1995年、北島のワイカト地方を占めるTainui( タイヌイ)族の歴史的な不公平な土地の転売に対し、現金と土地を合わせて1億7千万ドルが支払われた。同年、イギリス王室の故エリザベス女王2世が訪問した際に、スピーチで過去のイギリス政府はワイカト地方に侵入したとして謝罪。最初の調停の成功事例を機に、他の部族も次々にワイタンギ審査会に案件を登録した。

Ngāi Tahu(ナイ・タフ)部族の土地弁償

1870年から南島広域に広がる土地と土地に関わる様々な利権を求めて国会に訴求していたNgāi Tahu(ナイ・タフ)族は1997年に政府と調停。調停式は Kaikoura (カイコウラ)で行われ当時の首相が謝罪する模様がテレビで生中継された。1億7千万ドル相当の弁償金が支払われた他、Mount Cook(マウント・クック:NZで最も高い山)はAoraki / Mount Cook(アオラキ/マウント・クック)と改名され、Ngāi Tahu族に返還された。
Ngāi Tahu族はこの弁償金を資本に数々のベンチャー企業を設立。ブラフ・オイスターやロブスターなどの魚介類を扱う水産会社や、カイコウラのホエールウォッチングを操業している。

© Miles Holden via Tourism NZ

◆ あとがき

 

2月6日は国家制定を記念する日として全国で祝う日として全国でお祝いの式典が開かれる一方で、ワイタンギ条約が交わされたワイタンギでの式典では、マオリ族と式典に参加する首相など政治家との間でひと悶着あるなど、まだまだマオリ族の間で、過去の歴史に対するわだかまりがすべて解決された訳ではないことは明確です。

ですが、他のイギリスの植民地では先住民の権利を保証する契約さえ存在せず、先住民はマイノリティとして扱われている国がほとんどです。その例としてオーストラリアの国民投票があります。
ですので、ニュージーランドはワイタンギ条約が締結され、上述のように個人の権利が尊重された社会であることが、ニュージーランドの進んだ民主主義に繋がっていると言って良いかと思います。

このブログを読んで2月6日の意義を改めて意識していただければ幸いです。

尚、マオリ語の復興に向けた歴史や、ワイタンギ審査会の成功事例の一つであるワンガヌイ川請求を別の記事で取り上げています。
ご興味のある方はこちらもご覧ください。

 

また、オーストラリアの国民投票など先住民族と社会事情について知りたい方はこちらもどうぞ。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

1997年にNZに渡航。以来住み心地がよく現在に至る。旅行、ホテル業界を経て現在は教育業界に従事。 趣味は、ガーデニング、アートと映画鑑賞、夏のキャンプ旅行。 パートナーと中学生娘とウェリントン在住。