Tēnā Koutou katoa
以前、ニュージーランドのマオリ小説「 CHAPPY 」を紹介しました。
この 「 CHAPPY 」は、マオリ文学の第一人者、Patricia Grace 女史によるフィクションの小説ですが、主人公の CHAPPY は、第二次世界大戦を生き延びた日本人がモデルとなっています。
小説の詳しい内容や作家のPatricia Grace 女史について、それから日本人がモデルとなった経緯などについては是非こちらを読んでみて下さい。
今日は、そのモデルとなった日本人男性、野田朝次郎を紹介します。
小説に出て来るChappy は自らの意思でNZに渡航した密航者として設定されていますが、モデルとなった野田朝次郎は自分の意志ではなく、奇遇な運命によってNZに来ました。
何と、朝次郎はNZに移住し帰化した最初の日本人になります。
朝次郎の生い立ち
朝次郎は、1872年(明治5年)頃、現在の熊本県天草郡苓北町に生まれ、まだ幼い頃に長崎へ移住しました。
1880年(明治13年)、朝次郎が8歳の頃、船大工であった父親の仕事をねぎらう為に開かれたイギリス船の船上パーティの席に赴き、その結果船に一人取り残されてしまいました。
原因は父親が酔って朝次郎の事を忘れてしまったという説と、朝次郎が船内にいたけれども、父親は朝次郎が先に帰宅したと思い込んだ説があるようです。
こうして当時 8 歳の朝次郎少年は家族と別れ離れとなって長崎港を出港し、その後乗船したドイツ船は日本に戻ることはなく、朝次郎は10年間ほど世界を回っていました。
ニュージーランドでの人生
朝次郎がニュージランドに上陸したのは、1890年のことです。
上陸した場所は、南島のブラフで、その後しばらくインバーカーギルで働いていました。
その後朝次郎は 北島のワイカト地方で農園業を営んで財を成し、マオリ女性と結婚、三男二女をもうけました。
1931~34年に 当時のカンタベリー農科大学で学んでいた故川瀬勇氏は、著書『ニュージーランドに魅せられて』の中で、級友と旅行中にインバーカーギルの理髪店で日本人男性に出くわしたと記されています。
その日本人男性は高齢で片言の日本語を話していたとありますので、この朝次郎に間違いないでしょう。
日本からの初の民間人としてニュージランドで行われた公式行事にも参加していた川瀬氏が、自分より先に来ていた日本人がいたと知りとても驚かれたようです。
小説のChappyと違い、朝次郎は第二次世界大戦中は、高齢の為強制収容されることなく、1942年に92歳で亡くなるまでカイパラ湾の自宅で過ごしました。
が、残念ながら次男のマーティンは 戦争捕虜としてウェリントン湾のマチウ島に収容されています。
1990年に 朝次郎の孫達が長崎と天草を訪れた際、野田家の人々と対面し、その後も交流が続いています。
「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、小説 CHAPPY の主人公のモデルとなった野田朝次郎の生涯は正しくそうでした。
余談ですが、下の写真は、朝次郎のひ孫にあたる方から拝借しています。
朝次郎はとても背丈が低かったらしく、この写真を見てわかるように、椅子に座ると足が床についていなかったそうです。
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